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  • 執筆者の写真diamondhake

知らないと恥ずかしい ネクタイの起源と歴史


1920年代のスーツスタイル

出典:barimavox.blogspot.jp

1920年代のアメリカのイラスト

このページにたどりついたあなたは相当なネクタイ好きである。

同時にファッションの歴史を知る大切さを心得ておられる方であろう。

ネクタイの歴史は紳士服飾史そのものとも言える。

起源・歴史・由来を知ると、あなたの装いには意味が付されるだろう。

自分流のスタイルを築く助けにもなるだろう。

ネクタイのマニアックな歴史を知りたいあなたのための記事。

ぜひとも最後までお付き合いいただきたい。

ネクタイの歴史 古代エジプトからローマ帝国まで

不思議なことに、古代より男はのどや首の周りを飾ることに関心があった。

とはいえ、ネクタイの起源と歴史の跡を正確にたどることは非常に困難である。

北南米大陸のインディアンたちも首飾りをしていたし、首元の装飾は古代から世界中で同時発生的に見られるからだ。

ここでは幾つか代表的な例を挙げよう。

紀元前1737年、古代エジプトの王、ファラオがヨセフに金の首飾りを与えた記録がある。

「そう​し​て​ファラオ​は​認印​指輪​を​自分​の​指​から​外し​て​ヨセフ​の​指​に​はめ、ヨセフ​に​上等​の​亜麻​布​の​服​を​着せ、金​の​首飾り​を​掛け​させ​た。」(創世記41章42節)

ヨセフとはエジプトでファラオに次ぐ第二の支配者としての地位を与えられた人物である。

その際に、金の首飾りがファラオによって贈呈されたのである。

つまり、首飾りは権威の象徴であり、同時にファラオの信頼を得ている印でもあったわけだ。

古代エジプトのパネジェム1世の首飾り

出典:louvre.fr

古代エジプトの王パネジェム1世の首飾り(紀元前1096-664年)

さて、1974年に発見された中国の始皇帝(-紀元前220年)兵馬俑からは兵士たちが首に布を巻いている様子をうかがい知ることができる。

ネクタイの起源は中国の兵馬俑の兵士にもある

上の画像は重装歩兵の一人だ。地元の土産物屋では彼の模型が一番人気だそうだが、それはどうでもいい。

彼が首に巻く布にはどんな意味があるのか。

彼が兵士だからである。

首に巻いた布は軍の指揮下にある従属の者である証しなのだ。

首に巻く布は自分が何者であるか、だれに仕える者なのかを他者に知らせる代物なのだ。

ここに、わたしたちがネクタイを結ぶ第一義を見出すことができるのではないだろうか。

ネクタイは、自分がどんな人間かを他者に教える。

西洋においては、ローマ帝国トラヤヌス帝の時代にネクタイの起源を見ることができる。

兵士たちが故郷を遠く離れて北方国境守備に派遣される際に、妻や恋人たちが布を贈り、それを首に巻いたとされている。

現代でも男性へのプレゼントにネクタイを選ぶ女性は多い。

それはつまり、「あなたに首ったけ」という意味だ。

そして、男性は女性に対しての忠節を一枚の布によって表現するのだ。

兵士たちが布を首に巻いていた様子はトラヤヌス記念柱の中に見ることができる。

ローマのトラヤヌス記念柱

出典:nationalgeographic.com

ローマのトラヤヌス記念柱

以降のローマ帝国時代、兵士たちは防寒を兼ねて羊毛の布を首の回りに巻いた。

また、弁士たちもフォーカルと呼ばれる布をのどの保護のために巻いていたといわれている。

 
ネクタイの歴史 16世紀から17世紀まで

現代のネクタイの先駆けは16世紀後半のイングランドやフランスに登場した。

16世紀後半にイングランドやフランスでラフという襟型が登場したのだ。

ラフはあくまでも襟であり、ネクタイとは異なるが、首元の装飾という意味において重要なアイテムだ。

エリザベス女王の廷臣、また詩人であったサー・フィリップ・シドニー(1554-1586年)の肖像画

出典:nl.wikipedia.org

エリザベス女王の廷臣、サー・フィリップ・シドニー(1554-1586年)

すさまじい立体感である。

男性はダブレットと呼ばれる上着を着て、装飾のため首回りにラフを着けた。

厚さ十数センチのものもあったと考えられるラフは多くの場合、首の回りを囲む、大きな円盤状の襟だ。

ラフは白い布で作られており、形が崩れないよう支えられていた。

ネクタイを結ぶときの「立体感」というキーワードには歴史的な意味があるのだ。

17世紀にネクタイ史における重要な転換点が訪れる。

ヨーロッパで起きた30年戦争(1618年-1648年)の頃、クロアチアの兵士たちもこの悲劇に巻き込まれた。

クロアチアの軍装は、美しいスカーフを首に巻く伝統的なスタイルであった。

このクロアチア・スタイルが後にフランス国民を虜にする。

これにより、ネクタイは兵士や宮廷人のものから、一般庶民のアイテムへと変化していく。

1600年代のクロアチア兵

出典:tourdalmatia.com

1600年代のクロアチア兵

三十年戦争の最中の1635年、傭兵としてクロアチアの兵士がフランスを訪れた。

そして、ファッションに敏感なフランスのルイ14世の目に留まったのだ。

ルイ14世が、クロアチア兵が首に色鮮やかな布を巻いていることに気づいた。

気になったルイ14世は側近に、「あれは何だ?」(首元のスカーフを見ながら)と尋ねた。

すると、側近はクロアチアの兵士について尋ねられたと勘違いして、「クロアチア人(croate)です」と答えようとしたのだが、「クラバット(cravat)です」と答えてしまった。

ルイ14世は側近の二重の間違いに気づくことなく、「ああ、そうか、あの布はクラバットというのか」と納得してしまった。

かくして、フランスでは、クロアチア兵の色鮮やかな布は「クラバット」になったのである。

という説が有名だが・・・

14世紀にはすでにフランスで「cravate」という単語は使われていた、という説もある。

いずれにせよ、「クラバット」はフランスで新しいファッションとなった。

フランス語の「Cravate(ネクタイ)」の語源である。

現代のクロアチア兵

出典:theatlantic.com

現代のクロアチア兵(クラバット記念式典)

ルイ14世の蝶ネクタイ姿

出典:fr.wikipedia.org

ルイ14世の蝶ネクタイ姿

クラバットは、洗練・優美を表すものとして徐々に市民ファッションに採りいれられ、やがてヨーロッパ全域に伝わっていった。

さて、ネクタイの歴史の舞台をフランスからイングランドに移そう。

激動の時代に生まれたイングランドの国王チャールズ2世は、亡命を余儀なくされヨーロッパ中を移り住んだ。

当時すでにクラバットが流行していたフランスで9年間過ごしたのち、王政復古を実現するため1660年にチャールズ2世はロンドンに戻った。

そして、このチャールズ2世が行なった、ある宣言をきっかけにして、17世紀から18世紀にヨーロッパ中でクラバットという装飾品がさらに広まることとなる。

衣服改革宣言をしたチャールズ2世

出典:en.wikipedia.org

チャールズ2世(1630年-1685年)

1666年、派手さを極めていた衣服を改めるため、チャールズ二世が「衣服改革宣言」を出したのである。

チャールズ2世、「余は、本日より衣服を改める」

この宣言をしたチャールズ2世は、建築家ヘンリー・ジャーミンに、宮廷用品を揃える街を開発するよう命令する。

その後、この通りは王族の庇護の元に発展してゆき、仕立屋、シャツ屋、帽子屋、靴屋、馬具屋、香水店、理髪店、ワイン専門店などが増えていった。

そして、その伝統は今でもジャーミン・ストリートに受け継がれている。

さて、「衣服改革宣言」は、シンプリシティこそが洗練さを生むという宣言であり、チャールズ2世は衣服を簡潔にすることを推奨した。

ウェストミンスター寺院にあるチャールズ2世の彫像を見ると、そのクラバットは長さ86センチ、幅15センチほどのものだったことが分かる。

「衣服改革宣言」の後、男性は上着とウエストコート、フリルのついた白シャツ、ブリーチーズ、そして、首の回りにはスカーフのようなネッククロス、もしくはクラバットを巻くというスタイルが定着した。

衣服改革宣言後のチャールズ2世

出典:royalcollection.org.uk

衣服改革宣言を出したチャールズ2世(右側)

クラバットは首の周りに2回以上巻き、端をシャツの胸部に垂らすのが定番スタイルだ。

17世紀後半の絵画が示しているように、当時、クラバットは大変人気なアイテムだった。

ネクタイ選びのキーワードの一つは「シンプリシティ」だ。

洗練された遊び方を知っている人間は、アニマル柄のネクタイなど決して結ばない。

クラバットは綿モスリンやローン製の無地のものが多かった。

レースでも作られたが、レース製のものは高価でありごく一部の人間のみが所有していた。例えば、イングランドのジェームズ2世(1633-1701年)は戴冠式用のクラバットのために36ポンド10シリング払ったと言われている。

出典:gentlemansgazette.com

ヴェネツィアン・レースのクラバットをしたジェームズ2世

1692年、英国軍はベルギーのスティンカークに駐屯していたフランス軍に奇襲をかけた。

しかし、フランスの将校たちはきちんと身支度をする時間がなかった。

それで将校たちはクラバットを無造作に首に巻きつけて軽く結び、クラバットの端を上着のボタンホールに通して戦った、と言われている。

フランス軍は勝利をおさめ、この時のクラバットの巻き方はスティンカーク巻きとしてその後50年ほど流行した。

スティンカーク巻のイラスト

出典:cravate-avenue.com

スティンカーク巻きのイラスト

 

ネクタイの歴史 18世紀からヴィクトリア朝時代まで
音楽家のバッハ(1715年)

出典:ja.wikipedia.org

若き日のヨハン・セバスチャン・バッハ(1715年)

クラバットの結び方は多種多様であった。

場合によっては、クラバットを所定の位置に固定するため、シルクのリボンをクラバットの上に付けて、あごの下で大きな蝶結びを作った。この形のネッククロスはソリテールと呼ばれ、現在の蝶ネクタイに似ている。

下の画像のようにジャボと呼ばれるフリル付きの白いクラバットと黒いソリテールの合わせ技コーディネートもありだ。

フィリップ・コワペルの肖像(1732年)

出典:thefashionhistorian.com

フィリップ・コワペルの肖像(1732年)

1750年以降、古代ギリシアの彫刻が発掘されたことで、新古典主義ブームが訪れる。

古代ギリシアの英雄たちの肉体美を目指すように、男性服も変化していった。

大きく変わったのは、白い長ズボン(パンタルーン・トラウザーズ)とブーツである。

この時から、スーツは半ズボンではなく長ズボンが主流になっていった。 上着はカントリー・フロック(イングランドの田舎領主が着ていた服)がモチーフになり、前裾を切り落とし、後ろが長くされた。

フランス革命(1789年)後はカツラと半ズボンとストッキングが無くなった。

よりシンプルに。

長ズボンとブーツ。

元々、長ズボンは労働者の衣服と考えられていたが、フランス革命の際にサン・キュロット派(長ズボン派)が革命のシンボルとして政治的に利用し、その後のファッションにも影響を与えたのだ。

とはいえ、首元の装飾は衣服のスタイルが変わっても、政治が変わっても存続した。

ジャック=ルイ・ダヴィッドの肖像画(1794年)

ジャック=ルイ・ダヴィッドの自画像(1794年)

クラバットを結んで作る結び目の型は少なくとも100通りあったとされている。

紳士服のスタイルに多大の影響を及ぼしたボー・ブランメルは、1本のクラバットをきちんと結ぼうとして午前中の時間すべてを費やしたと言われている。

元祖ダンディズム、ボー・ブランメル流のスタイルはこうだ。

シャツには大きな襟を取りつける。

ネクタイには柔らかいモスリンの代わりに糊づけした布地を使う。

シャツの襟はほどよい大きさに折り曲げて、顎でネクタイを押さえつけてへこませる。

ネクタイは首の回りに高々と結び、首元に立体感をもたせる。

ブランメルのスタイルは決して派手ではなく、むしろ地味である。

華美な装飾よりも清潔さを重んじ、香水もつけなかった。

「街を歩いていて、人からあまりじろじろと見られているときは、君の服装は凝りすぎているのだ」 ボー・ブランメル

日本人は「ダンディズム」というものが好きらしい。どうも、粋な大人の男という意味合いとしてらしいが、英国で「ダンディ」という言葉は幾らか嘲笑の意味合いが込められている。間違っても英国紳士に「ダンディですね」と言ってはいけない。

ブランメルはネクタイの結び方にこだわった

ボーブランメルの肖像(1805年頃)

ジョージ・クルックシャンクによるネクタイの結び方(1818年)

出典:wikipedia.org

ジョージ・クルックシャンクによるネクタイの結び方(1818年)

ヴィクトリア朝時代(1837-1901年)には、ファッション性の高かった摂政時代の反動から一転して、着心地の良いスーツに変化していく。

紳士の身だしなみはシンプルに。

ネクタイ、ステッキ、手袋などの小物で個性を表現するようになっていった。

ボー・ブランメル亡き後の時代のスタイル・リーダーはアルフレッド・ドルセー伯爵であろう。香水ブランドのパルファン・ドルセー・パリの創立者である。

ドルセー伯爵のスタイルによって今日の紳士服が形作られたといっても過言ではないだろう。

わたしは個人的にはブランメルよりもドルセー伯のスタイルの方が好みだ。

ブランメルは中流階級からの成り上がりで社交界のトップに立ったのに対して、ドルセー伯爵は正真正銘の貴族階級であった。

ブランメル流のクラバットは徹頭徹尾、白のモスリン地でしっかりと糊付けしたものだった。完成された形を崩さないことが彼のこだわりであった。

一方、ドルセー伯爵流は黒のサテン地やネイビー、シーグリーン、プリムローズイエローなど様々だ。そして胸元にソフトなゆとりと優雅さを添えるのがドルセー流だ。

ドルセー伯爵が身に着けた黒のサテン地クラバットや、ドルセーロールのシルクハット、ドルセーパンプス、ボタンをルーズに止めるジャケットと反り返ったラペルなどは、今日のタキシードスタイルの規範となっている。

1928年のパルファン・ドルセーの広告

出典:adclassix.com

1828年のパルファン・ドルセーの広告

両端の長いクラバットは1860年代には現在のネックウエアのようなものになり、ネクタイと呼ばれるようになった。

フォア・イン・ハンドという言い方は、4頭立ての馬車の御者が用いた結び方から来ている。

さて、イギリスを中心に大流行したフォア・イン・ハンド・タイだが、重大な欠点が存在した。

当時のネクタイはネックスカーフという呼び方があったことからも分かる通り、大きな布を折りたたんだだけのものが多かったのである。

これらのネクタイはとにかく結びづらく、また結んでもすぐに解けてしまうのだ。

ヴィクトリア朝時代にネクタイを留めるネクタイ・クリップやネクタイ・ピンが多く売り出されていたのもそのためである。

1863年のMAISON DU PHENIXの広告

出典:activerain.com

1863年のMAISON DU PHENIXの広告

1860年代頃にはネクタイの種類として、結び下げネクタイ(フォア・イン・ハンド・タイ)、蝶ネクタイ、ストックタイがある。

クラブタイの起源は1863年、英国イートン・カレッジのランブラーズ・クリケット・クラブの生徒がユニフォームにレジメンタル・タイを結んだことに始まる。

英国には様々なクラブが存在しており、クラブごとにレジメンタル・タイが存在している。ストライプの幅や色の配色が厳格に定められており、その伝統は今でも英国の上流階級で生き続けている。

ゆえに、わたしはレジメンタル・タイを結ぶことに抵抗を感じる。

アスコットタイが流行したのは1870年代である。英国のロイヤル競馬場アスコットヒースに集まった紳士たちがグレイのモーニングコートとアスコットタイを好んで着用したのだ。それゆえ、今でもグレイのモーニングコートをアスコット・モーニングと呼ぶ。

1878年のアスコット競技場の様子

出典:bbc.com

1870年代のアスコットヒースの様子

1870年の蝶ネクタイ

出典:metmuseum.org

1870年製の結婚式用蝶ネクタイ

1870年当時の蝶ネクタイが現在の結び下げネクタイと類似しているのは興味深い点である。また、当然のことながら1枚の布で製作されている。

現代の一般的に販売されている蝶ネクタイはあらかじめ結び目が作られているものが多く、たとえ手結び式の蝶ネクタイであっても結び目を作りやすいようにシェイプが入れられている。これらの蝶ネクタイを首が短くて身長の低い日本人が締めると容易にコスプレ衣装となり得る。

蝶ネクタイを結ぶときのコツは、あくまでも自分で結ぶこと。そして、自然でリラックスした雰囲気を崩さないことだ。蝶ネクタイを結んでいることを妙に意識してしまうと、周囲からは珍妙な大人に映ることを覚えておくべきだ。結び目の形が崩れているくらいが丁度いい。ディンプルとも皺ともとれる窪みがあると着こなしに余裕を感じさせる。

エドワード・アンドリューとサム・バークレイ(1884年)

出典:www.nypl.org

エドワード・アンドリューとサム・バークレイ(1884年)

アルフレッド・ダグラス(左)とフランシス・ダグラス(右)

出典:mypoeticside.com

アルフレッド・ダグラスとフランシス・ダグラス(1890年頃)

 

ネクタイの歴史 20世紀初頭から1960年代まで

ヴィクトリア朝末期から主流になったラウンジスーツは現代のスーツの原型である。

そして、フロックコートやモーニングコートのような改まった服装から、文字通りラウンジでくつろぐための普段着へと紳士の装いは変化していった。

余談だが上下揃いの布で作られたラウンジスーツは、当時の感覚ではインフォーマルウェアであった。対照的にフォーマルな装いとは上下別々の布地を身に着けることを意味したのだ。紳士服の歴史を通じて上下が共布で作られたことはかつて一度もなかったわけだ。その意味ではジャケットとトラウザーのいわゆるジャケパンスタイルは歴史的に見ればフォーマルとみなせる。社会的に見ればカジュアルだが、この見方もいずれ変化するかもしれない。

わたしの予測では近い将来、モーニングコート等は廃れ、スーツがフォーマルウェアに格上げされ、ジャケパンスタイルが平装となる。すでに燕尾服が絶滅危惧種であり、夜の礼装はタキシードとみなされるようになってきている。それゆえ、モーニングコートも同じく絶滅するのではないかと思うのだ。

一方でクラシック回帰の流れが近年見られることからすると、ネクタイの位置づけも変化していくだろう。2000年代以降のカジュアル化の極限としてノーネクタイのスタイルが出現したが、その反動として蝶ネクタイやアスコットタイが再び隆盛するのではないだろうか。

話が横道にそれてしまった。ネクタイの歴史に戻ろう。

20世紀初頭はネックウェアの過渡期と言える。

クラバットやアスコット・タイ、ストック・タイ、フォア・イン・ハンド、ボウタイ。

様々な種類のものがあり、素材もシルク、コットン、リネン、ウールなどがあった。

しかし、一つ言えることは、ノーネクタイの装いはあり得なかったということだ。

そして、首元に立体感を持たせることが装いのポイントである。

いわばスカーフのような柔らかさと風を身にまとうのだ。

それは古代ローマ時代から変わらないスタイルであり、ネクタイの存在意義でもある。

布地を結んだ際の皺や、くぼみが造る表情は紳士服の堅さを和らげ、気持ちに余裕をもたらす。

20世紀初頭のネクタイがどのようなものであったのか、歴史写真や当時のイラストで見てみよう。

1902年のネックウェアのイラスト

出典:www.nypl.org

1902年のネックウェアのイラスト

蝶ネクタイにはシェイプが存在せず、結び下げネクタイと似たものもあれば、現在のバット・ウィングのような蝶ネクタイなどがあり種類は様々であった。

当然、結び方も種類が豊富で紳士たちは蝶ネクタイの形状に合わせて結び方を変えて楽しんでいた。

1910年頃の手結びボウタイ

出典:metmuseum.org

1910年頃の蝶ネクタイ

1911年のブルックス・ブラザーズのカタログ

出典:yabushun.exblog.jp

1911年のブルックス・ブラザーズのカタログ

紳士用品店シンプソンズの広告(1918年)

出典:vintagedancer.com

紳士用品店シンプソンズのネクタイ広告(1918年)

20世紀初頭のネクタイは今よりも短いものだった。

スーツは三つ揃いが基本でありネクタイの先端はベストの下に隠れるからだ。

また、1枚布のスカーフの流れを汲んでいたためでもある。

それ故に幅広であったり、形状も様々なバリエーションが存在していた。

1919年、のちに退位してウィンザー公と呼ばれる英国皇太子がアメリカを訪問した際に英国近衛兵第一連隊のレジメンタル・タイをしていたことでアメリカでレジメンタル・タイが大流行した。